みなさん、こんにちは。
昨日、久しぶりに「G(黒いテカテカしたやつ)」を撃退し
少し自信を身に付けました、おぜんべい大好きママです。
動きも鈍かったし、一撃で動かなくなったし
体も小さかったから、きっと偵察用に送り込まれた若いヤツだったんだろうな・・・
帰ってこなくなって、「この家はまずい」と本隊は諦めただろうな・・・フフフ
と、勝利の余韻に浸っております。
さて、「諦め」といえば
息子が勉強しなかったり
自分の食べたお昼の食器やお弁当箱を洗っていなかったり
畳んである洗濯物が丸1日経ってもタンスにしまわれなかったり
つまり、「約束したことがされていない」状況でも私は
「・・・うん。」
と、スルーできるようになってきました。
しかし、その一方で
「これは、しっかり怒るべき?このまま大人になったら周りを困らせる?」と、モヤモヤしていたのです。
そんな中、今日、一つの言葉に出会いました。
「諦念(ていねん)」
仏教の言葉で、「真理を悟り、迷いを去った境地に達すること」「あきらめの境地に達すること」という意味です。ただし、「あきらめの境地に達すること」の意味は、「見込みがないと断念する」という意味の「あきらめる」ではないのです。仏教的には、「諦念」は、「迷いの去った境地」を表します。
私は、息子が出来ていないことを指摘しない自分に対して、息子の成長を「あきらめ」、「親の責任を放棄した」ように感じて、モヤモヤしていたのだと気付きました。
しかし、どちらかと言うと「ここから先は本人の意志、行動する力の問題だ」という気持ちが大きく、その意味で「迷いが去った」という表現がしっくりきました。
きっと本人もやるべきことだということはわかっているし
言わなくてもやるときもあるし、何なら言われた以上のことをやっているときもある。
違う人間なのだから、「私がやって欲しいタイミング」と「息子のやりたいタイミング」が合わないことはあるし、それを一方的に「やりなさい」と強制することのほうが、しっくりこないな、と思うのです。
自分の心のうちを言葉で表現しただけで、くっきりと心の有り様が見え、秋晴れのようなすっきりした気持ちになりました。
・・・まあ、42歳ということで
大きな声で怒ること自体、体力が消耗するというのも、あるんですけどね・・・
それでは。